■祇園祭の変遷
- 元冶元年(1864)
- 7月1日の禁門の変で山鉾罹災多く、慶応元年は前祭(さきまつり)に山鉾巡行はなく、後祭(あとまつり)では橋弁慶山(はしべんけいやま)、役行者山(えんのぎょうじゃやま)、鈴鹿山(すずかやま)のみ巡行、但し鈴鹿山は唐櫃(からびつ)で巡行。
- 慶応2年(1866)
- 前祭は霰天神山(あられてんじんやま)、郭巨山(かっきょやま)、琴破山(ことわりやま)のちの伯牙山(はくがやま)のほかは唐櫃で巡行。但し保昌山(ほうしょうやま)は榊で巡行。
- 慶応3年(1867)
- 後祭は鯉山(こいやま)、唐櫃で参加。
- 明治2年(1869)
- 前祭は函谷鉾(かんこぼこ)、孟宗山(もうそうやま)、山伏山(やまぶしやま)、占出山(うらでやま)、保昌山が復興。月鉾(つきぼこ)、鶏(にわとりぼこ)鉾は町内のみ巡行。放下鉾(ほうかぼこ)は車焼失についき建切(たてきり)。
後祭に南観音山が唐櫃巡行。 - 明治3年(1870)
- 前祭は長刀鉾(なぎなたぼこ)、月鉾、鶏鉾、霰天神山が復興加列。
放下鉾、岩戸山(いわとやま)は町内建切。後祭に北観音山唐櫃巡行。 - 明治4年(1871)
- 放下鉾は町内建切。綾傘鉾(あやがさぼこ)不参加。後祭に南観音山。
※天正19年(1591)から明治4年(1871)まで寄り町(よりちょう)制度。 - 明治5年(1872)
- 清々講社による補助制度新設。放下鉾は北観音山(きたかんのんやま)の車を借用して加列。
前祭、太子山(たいしやま)、白楽天山(はくらくてんやま)、芦刈山(あしかりやま)、油天神山(あぶらてんじんやま)、木賊山(とくさやま)、岩戸山(いわとやま)復興。後祭、北観音山、復興加列。 - 明治6年(1873)
- 本年より太陽暦採用。
和宮様、寺町春長寺で前祭上覧。 - 明治9年(1876)
- 京都博物館に各山鉾、持ち物の届け出が命じられる。
- 明治10年(1877)
- 明治6年から太陽暦上で、旧暦6月7日、14日に該当する日をもって巡行日とされてきたが、それでは祭日が一定せず不便であるため、本年該当祭日(新暦7月17日、24日)をもって恒久的に祭日と決定された。
- 明治12年(1879)
- 6月からコレラ流行につき、祭礼11月に延期。後祭、南観音山(みなみかんのんやま)復興。
前祭、綾傘鉾徒歩囃子で加列。ドイツ皇孫、御入洛を機会に7日の巡行を終わっても、そのまま解体せずに残し、13日の後祭の宵山(よいやま)は前祭の山鉾も点灯して囃子をしたので空前の賑わいとなり、15日は御所に参入。 - 明治13年(1880)
- 伏見宮、寺町神宮教会で前祭台覧。
- 明治14年(1881)
- 久邇宮、寺町神宮教会で前祭台覧。
- 明治15年(1882)
- 久邇宮、山階宮寺町神宮教会で前祭台覧。
- 明治16年(1883)
- 皇族、寺町神宮教会で前祭台覧。
- 明治17年(1884)
- 前祭が大雨のため、長刀鉾は既に寺町松原あたりまで進行していたにもかかわらず、道路の損壊著しく、続行困難となり、一応延期、23日に再挙した。
天候の故に延期された唯一の例外である。 - 明治18年(1885)
- 11月15日、函谷鉾を梨木神社へ曳行。
- 明治19年(1886)
- 5月、コレラ流行のため11月に延期。
- 明治20年(1887)
- コレラ流行の恐れあり、5月に繰上。木賊山、本年から曳山となる。
- 明治21年(1888)
- 財政難のため白楽天山、本年から巡行不参加。
有栖川宮、下村方で、久邇宮、市原方で前祭台覧。
南観音山、7月22、23日、暴風雨で真松折損につき、当日、飾り付けのまま引き出さず。 - 明治22年(1889)
- 前祭、船鉾(ふねぼこ)、南観音山の車を借用して復興。
月鉾、鶏鉾、財政難のため清々講社に借金申し入れ。
北白川宮、小松宮、三条、杉浦方で後祭を台覧。 - 明治23年(1890)
- 4月8日、疎水開通式前夜、鶏鉾、月鉾、郭巨山、油天神山を出す。
- 明治28年(1895)
- コレラ流行のため、鉾取崩し、10月に延期。
- 明治29年(1896)
- 山階宮、賀陽宮、四条高倉、寺田方で前祭を台覧。
- 明治30年(1897)
- 前祭は、本年降雨激しく、順序不同となる。
鉾の帰路は全部、新町松原廻りとなる。 - 明治31年(1898)
- 11月、美術館において浄妙山(じょうみょうやま)を組立、天覧に供す。
- 明治32年(1899)
- 本年から、くじ取り式は市役所で執行。
維新までは六角堂で行われていたが、維新以降は京都府庁。
伏見宮、四条、市原方で前祭を台覧。 - 明治35年(1902)
- 久邇宮、市原方で前祭を台覧。
- 明治43年(1910)
- 瓦斯管設置により、函谷鉾、巡行を中止。
本年から、月鉾、鶏鉾のくじ取りを廃止、交代制で先、後とする。 - 明治44年(1911)
- 白楽天山、巡行に参加。
- 明治45年(1912)
- 明治天皇、御不予につき後祭を中止、22日に南観音山取崩。
- 大正2年(1913)
- 7月31日まで明治天皇諒闇につき、8月に延期。
- 大正3年(1914)
- 昭憲皇太后崩御につき延期。
- 大正8年(1919)
- 放下鉾の駒形提灯を電灯で点灯。
- 大正9年(1920)
- ルーマニア国皇太子、四条堺町、報徳銀行で前祭を台覧。
- 大正11年(1922)
- 函谷鉾、鉾建ての際に真木折れ、この年不出。
- 大正12年(1923)
- 山鉾町が、「祇園祭山鉾連合会」を組織。
京都市より修繕補助制度新設。 - 昭和3年(1928)
- 11月18日、御大典園遊会に、放火鉾、岩戸山を建てる。
- 昭和8年(1933)
- 4月、月鉾を東京高島屋で展示。
- 昭和14年(1939)
- 巡行費について、私祭奨励金の名目で補助新設。
- 昭和17年(1942)
- 第二次世界大戦のため、鉾建てを14日に繰延、宵山の点灯を中止。
- 昭和18年(1943)
- 本年より山鉾建て・巡行を中止。
- 昭和22年(1947)
- 長刀鉾、月鉾のみ、25日頃まで建て置く。
長刀鉾は、17日に寺町四条まで往復曳行。
この年から昭和25年(1950)まで、京都市観光連盟が清々講社と共に補助金の調達にあたる。
清々講社と観光連盟が主体となって「祇園祭山鉾巡行運営委員会」を結成、9月に「祇園祭山鉾巡行協賛会」と改称される。 - 昭和23年(1948)
- 北観音山、船鉾を四条寺町まで往復曳行。
ただし、船鉾は占領軍に遠慮して人形を載せず、24日まで建て置く。
北観音山は24日に町内のみ曳行。 - 昭和24年(1949)
- 長刀鉾、木賊山、芦刈山、函谷鉾、油天神山、郭巨山、放下鉾、太子山、岩戸山の順で四条寺町まで往復曳行。
- 昭和25年(1950)
- 前祭は四条河原町まで往復曳行。後祭は戦前通り巡行。
- 昭和26年(1951)
- 月鉾、鉾建ての際に横倒しとなり、本年居祭につき、山伏山、霰天神山、太子山を放下鉾の後に配置し巡行。
本年から前後祭とも戦前に復した。祇園祭山鉾巡行協賛会から山鉾巡行補助金が交付される。総経費500万円とみて、連合会側が半分の250万円を負担し、京都市側としては観光連盟を通じて50万円の補助金とともに、残り200万円を工面することとなった。
戦後の疲弊が抜けず総計180万円しか調達できず、全基の巡行が危ぶまれたが、不足分70万円を三和銀行から借り入れることができた。 - 昭和27年(1952)
- 菊水鉾、仮鉾にて奏楽を載せて加列。
- 昭和28年(1953)
- 菊水鉾、総白木で復興。
本年から鶏鉾、月鉾、菊水鉾のくじ取りを再開。 - 昭和30年(1955)
- 函谷鉾、車輪の不調により四条寺町より曳き戻す。月鉾を6月、東京駅八重洲口広場で展示。
- 昭和31年(1956)
- 前祭の巡行路を御池通りに変更(四条-寺町-御池-烏丸、ないしは新町)。京都市から山鉾修理補助金が交付される。
- 昭和32年(1957)
- 京都市長による祇園祭山鉾行事功労者表彰制度新設。
菊水鉾を23日まで四条柳馬場東に残置。 - 昭和34年(1959)
- 10月、菊水鉾を札幌にて展示。
- 昭和35年(1960)
- 岩戸山、不出。
- 昭和36年(1961)
- 岩戸山、不出。
前祭、巡行路を寺町通から河原町通り北上に変更(四条-河原町-御池-烏丸、ないしは新町)。 - 昭和37年(1962)
- 阪急電鉄の地下鉄化延長工事(大宮-河原町)のため、前後祭ともに巡行を中止。
鶏鉾、菊水鉾、放下鉾、北観音山、南観音山は町内のみ曳行。
山鉾29基が、重要有形民族文化財に指定される。収蔵庫建設費の一部補助金が交付される。 - 昭和38年(1963)
- 保昌山、舁き山の四本柱下に車輪を取り付け、舁かずに押して巡行を開始。以後、各舁き山、次第にこれに倣う。
- 昭和39年(1964)
- 10月1日から1ヶ月、船鉾、橋弁慶山を京都市美術館にて展示。
- 昭和41年(1966)
- 本年から、後祭の山鉾も17日に合同巡行(それまでは、三条-寺町-四条)。ただし、鈴鹿山は抗議のため不出。
- 昭和43年(1968)
- 三笠宮崇仁親王、同妃百合子、憲仁親王、近衛龠子妃、宵山に放下鉾、霰天神山、山伏山、鯉山、北観音山を巡覧、17日、くじ渡し場で全山鉾巡行を台覧。
本年から、京都府知事もくじ渡し場に出張。円山公園内に山鉾収蔵庫完成。祇園囃子の保存事業始まる。
43年にテープ録音、45年から49年まで五線譜に記録、54年から56年に出版事業に補助金交付される。 - 昭和45年(1970)
- 8月7日から、菊水鉾、保昌山、太子山、白楽天山、浄妙山、長刀鉾の6基(模造)を、日本万国博覧会に出展。
- 昭和48年(1973)
- 綾傘鉾、棒振囃子、7月15日夜、八坂神社、太子山町、善長寺町、保昌山町(燈篭町)において、16日夜、浄妙山町(骨屋町)、蟷螂山町、郭巨山町において試演を行い、引き続き、日和神楽に参加。
- 昭和52年(1977)
- 観客危険防止のため、鉾上からの粽投げ自粛となる。
なおこの年、市地下鉄工事のため、烏丸通が通行不可能となったのを機に、以降、全山鉾、新町通を巡行して帰町となる。また、有料観覧席も烏丸-新町間に拡大された。 - 昭和54年(1979)
- 綾傘鉾が再興され巡行に参加。
「京都祇園祭の山鉾行事」が重要無形民族文化財に指定。
全国山鉾・屋台・山車等保存連合会設立。祇園祭山鉾連合会(京都市)高岡御車保存会(高岡市)高山屋台保存会(高山市)秩父祭保存委員会(秩父市)日立郷土芸能保存会(日立市)の五団体で構成され、初年度は開催地の高山が当番幹事を務め、一年ごとの持ち回りで幹事を務めることとした。 - 昭和55年(1980)
- 9月から翌年4月まで、講師に林屋辰三郎氏ほか10名を迎え、「講座祇園祭」を開催。
- 昭和56年(1981)
- 囃子方講習会、笛方講習会を開催。
蟷螂山(とうろうやま)が再興され、巡行に参加。 - 昭和57年(1982)
- 祇園祭山鉾染色品新調制度発足。
京都府選定技術者認定制度新設(川島織物、龍村美術織物が選定される)。 - 昭和59年(1984)
- 三井銀行京都文化財展示室 開室。
- 昭和60年(1985)
- 京都府伝統行催事功労者表彰制度新設。
- 昭和62年(1987)
- 祗園囃子後継者養成事業(3年間)始まる。
- 昭和63年(1988)
- 四条傘鉾(しじょうかさぼこ)が再興され、巡行に参加。
- 平成2年(1990)
- 四条傘鉾、巡行不参加。
- 平成4年(1992)
- 財団法人祇園祭山鉾連合会移行。
- 平成5年(1993)
- 祇園祭山鉾装飾品等審議会・祇園祭山鉾装飾品等専門委員会設置。
- 平成6年(1994)
- 京都新聞社の協力を得て、京都府文化博物館において「祇園祭大展〜山鉾名宝を中心に〜」を開催。
- 平成7年(1995)
- 巡行時間の間延びを正常化するため、山鉾間に役員を配置し巡行時間を計測する。
- 平成8年(1996)
- 傘鉾2基の巡行順番をシードして、くじ取りを行い、7番目と15番目の順位とした。
- 平成9年(1997)
- 整然巡行を実行するため全山鉾を午前9時に四条烏丸に集合させる。
- 平成10年(1998)
- 京都市自治100年記念事業「祇園祭の美 〜祭を支えた人と技〜」に協力。
- 平成14年(2002)
- 5月、三井銀行京都文化財展示室 閉室。
7月、「全国山・鉾・屋台保存連合会」の部会である「祭屋台等製作修理技術者会」が、「選定保存技術保存団体」として、文部科学大臣より認定を受け、会則に基づき、財団法人山鉾連合会理事長が会長職に任命された。 - 平成21年(2009)
- 『京都祇園祭の山鉾巡行』がユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界無形文化遺産に登録決定。
- 平成24年(2012)
- 大船鉾が唐櫃で巡行に参加、33基による山鉾巡行を実地。
平成24年、財団法人祇園祭山鉾連合会が公益財団法人となる。 - 平成25年(2013)
- 1966年から途絶えた後祭を平成26年(2014)から49年ぶりに復活させ、先祭と2日にわけて実地することを、協議会で正式決定。
- 平成26年(2014)
- 大船鉾が「蛤御門の変」以来150年ぶりに曳き鉾として後祭巡行に参加。