明治20創業の旗製造会社「平岡旗製造」。29歳で家業に入る。初めて自分の仕事として任してもらったのが、甲子園の地方大会の優勝旗につける代表校のペナントを作る仕事。実は中高と野球に打ち込んでおり、やりがいを感じていた。ある時、甲子園の開会式をテレビで見ていたら、各校が掲げる地方大会の優勝旗が、ボロボロのものがあったり、旗の付け方が間違っているものや、持ち方が変だったりした。それを見て、旗屋としていても立ってもいられず、主催者側に無償でいいのでチェックさせてほしいと直談判。それからは、毎年、開会式のリハーサルの時に、旗に不備がないかをチェックしている。そんな功績から100回の記念大会を機に、夏の甲子園の「深紅の大優勝旗」を新調してほしいという依頼が舞い込んだ。制作費は1200万円。全ての工程において最高峰の素材を使い、最高峰の職人を総動員して作った。甲子園で行われた旗のお披露目会の時には、ウグイス嬢に名前を読んでもらってグランドに立った。高校のときには踏めなかった甲子園の土を旗屋として踏みしめた。